登米に暮らす

お米を運ぶ、水の道

労働を頑張っていて良かったなと思うことは、「○○な体験会があるので、トメのコメジルシさんもご一緒しませんか?」とお誘いいただくこと。

(一社)貞山運河ネットワークの方から、「登米の小学生が育てた米を、江戸時代のように船で運ぶ取り組みをするので、なんなら船に乗りませんか?」と、最初にお声がけいただいたのが令和5年10月のこと。

「登米」の由来は、地名のとおり米どころで、かつて江戸時代に「米」が「登っていた」、江戸時代の食を支えていたことから。

なので、「『登米』できるまたとないチャンス!」と思い、有難く参加させていただきました。

令和5年は、登米から石巻まで船で「登米」しました。

元々登米市には縁もゆかりもなく、ですが、みやぎの明治村界隈や北上川の美しさ、伊豆沼の蓮まつりに魅了され登米市の職員になったトメのコメジルシ。

北上川はいつ見ても美しいと思うし、雨が降った後の水かさが増し濃い色になっている様を見ても、なんならいつもとのギャップにちょっとドキドキします。

北上川はただのインフラではなく、当たり前ですが町と町をつなぎ、「流れ」でありながら、歴史と文化と、過去・現在・未来の結紮点、流れだけど点になっていて、なんならタイムマシーン的機能がある雄大な水の道。

そんなこんなで、令和7年、今年も有難いことにお誘いいただき、「登米」してきました。

お米運びは、登米から石巻、石巻から多賀城の貞山公園、七北田川から名取のかわまちてらす閖上までの3日間にわけて実施されました。

令和5年に、登米から石巻のパートを体験したことがあったので、今回は石巻から多賀城まで「登米」する体験をさせていただきました。

役得以外のなにものでもありません。

石井閘門(重要文化財)からスタート。

 

江戸時代や明治時代は誰がどう開閉していたのかは詳しくは分かりませんが、今回は国土交通省の職員の方が開閉してくださいました。

江戸時代、レーダーも何もないのに、北上川の水深の浅いところ、米の積載量を計算して『登米』していた当時の船乗りのカンピューターは凄まじいなと毎回思います。

 

パソコンもGPSもドローンもAIもない時代の人のほうがよっぽど優秀だと思います。

 

トメのコメジルシが乗船した、石巻~貞山公園パートは、本来はお米を育てた登米のこどもたちと『登米』したいところですが、平日だったので大人だけで『登米』しました。

 

 

さて今回は、9時頃石井閘門を出発し、12時20分頃貞山公園に着くクルーズでした。

東松島近辺では、江戸時代には絶対なかった景色、「ブルーインパルスの基地上空訓練」に遭遇。

空気をつんざきながら、イルカのように青空を飛び回るのを見られて眼福でした。

不勉強で、明治初期に「野蒜(のびる)築港」という事業があったことを知りませんでした。

明治初期に行われた港湾工事は、日本初の近代港湾の建設であり、明治政府による東北開発の中心的な事業と位置づけられていましたが、完成から3年後に台風で突堤が崩壊し、施設はそのまま放棄され、現在では土木学会選奨土木遺産となっています。

もし台風でダメにならず、順調に運用されていたら、このあたりは横浜のみなとみらいのようなエリアになっていたそうです。

 

エンジンを積んだ船でのクルーズ。

江戸時代はどんな危険と隣り合わせだったのかは想像もつきませんが、流れて見える町並み、海までの水の道、浴びる風などは当時と変わらないはず。

 

貞山公園でお米を引き上げて、この日のパートは無事終了。

 

令和5年に「登米」したときは、石巻から登米まで車で戻ったのですが、今回はご厚意に甘えて、多賀城から石巻までまた船で戻りました。

登米市職員で、「登米」と「降米」したことがある職員は、おそらくトメのコメジルシだけではないでしょうか。

 

トメのコメジルシは、民俗学者の宮本常一先生に憧れています。

先生が日本中歩いて聞き取りを行った地域を赤鉛筆でなぞれば、日本地図が真っ赤になると言われています。

歩いた距離は地球4周分(16万キロ)とも言われています。

トメのコメジルシも、トメのコメジルシを求めて登米市内あちこち回ったところを赤鉛筆でなぞれば、うっすら赤くなったでしょうが。

そうやって、あちこちトメのコメジルシを求めて得た出会いと気付き、結紮点。

 

今回の「登米」で出会った、空撮家MAYU – DRONE ARCHIVIST さん。

こちらの映像美もご是非覧ください。

 

【トメのコメジルシの宮本常一的証①令和版~スマホの写真フォルダ~】

 

【トメのコメジルシの宮本常一的証②令和版~ナビでウロチョロしたところ~】